鳥居徹也ブログ (講演記録)

全国講演をビデオで報告します!

カテゴリ: Q&A

私はキャリア教育の講師として全国で講演しているが


実は「働く意味」に関してはほとんど語っていない。


もちろん、かつては語っていた。


語ろうとしていた。


しかしその試みはことごとく失敗した。


それほど、高校生に「働く意味」を語ることは難しい。


これは現場の先生方はよくわかっていただけると思う。


試行錯誤の末、私は次の方法をとった。




鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。





「A」というテーマを語るに際し、


あえて直接「A」に触れる事を避け、逆に「A」でないことを話題にする。


その中で、逆説的に「A」について考えてもらう、といったやり方だ。


「非A」の輪郭が明確になれば、おのずと「A」が浮き上がってくる。


そうして「フリーター」「ニート」「ワーキングプア」という内容が入ってきたに過ぎない。




 「働くこととは○○だ!」


 「人間観、人生論を説くべきだ!」




「キミの人生観を述べたまえ!」。


かつてある会合で同席した某出版社の社長から説教された事がある。


(今度選挙に出るらしい…)


キミのような語りではだめだ、と。




「成功した社長」のような講演ができたらそれにこしたことはない。


私もやってみたい。


しかし少なくとも、高校生はそれを求めていない。


一部の進学校なら受け入れられるかもしれかないが…




ただ先生向けやPTA向けの講演で


「働く意味」について語ることがある。


ヒントは高校生がくれた。




福岡県の高校で講演した際、


その感想文に次のような事が書いてあった。




 私は働くことの意味を辞書で調べてみました。


 そこには2つの意味がありました。


 1つは、お金を稼ぐこと。


 もう1つは、人のために~をすること。…





細部を忘れてしまったが、要するに2つの意味があるということ。


そうだ、確かに。


これは「公と私」の問題なのだ。




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私たちはいろいろな仮面を被って社会生活を送っている。


会社では課長の仮面。


家では夫の仮面、父親の仮面。


地域に出たら○○役員の仮面。


しかしその実態は…




そう、仮面の下に自分の素顔がある。


それが「私」。




 「本当は今日は○○したくないんだが、でも課長としての俺は○○しなければならない」




子どもはこの切り替えが下手だ。


だからこそ子どもなのだ。


大人はしばしば、仮面の下で泣いていたりする。




鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。




公(思いやり)と私(意欲)という矛盾する2者をいかに育むか?


まさにこれこそが幼児教育、いや教育の永遠のテーマである。


そしてそれを自ら切り替えて行くことを「自律性」という。


人に言われたからやるのではない。


自らの判断でやる。




「あの上司のもとならば働く。


でもお前の下では働くものか!」




本当はこれではいけない。


自分の人生を人に預けてはならないのである。


(まあ、現実はなかなか…)




さて、「働く」とは?




それは「公と私」のバランスの上にある。


自分のためにお金を稼がないといけない。


生活できない。


しかし働くという事の意味はそれだけではない。


人の役にたたなければならない。


「公と私の対立」。


これは人生の永遠のテーマでもあるのだ。




いきなり話は飛ぶが「24」というドラマがある。


あれなどもまさにテーマは「公と私」。


テロリストが人質を盾に交渉してきた。


応じるわけには行かない。


アメリカ合衆国のメンツにかけて。


しかしなんと、その人質は自分の娘だった。


どうする、ジャック・バウアー! といったノリだ。




「公と私」の葛藤に苦しむ主人公の姿に


我々はいとも簡単に感情移入してしまう。


ヒーローとは、何らかの形で「自己犠牲」を払う存在である。


逆に言えば、自己犠牲を行った途端、


その人はヒーローになる資格を得る。


程度の差こそあれ、


「公と私」の間で苦しむのは誰もが一緒なのである。


(健康な人間であれば、とマズローは付け加えるだろう)




この根源的なテーマをいかに授業化するか、できるのか?


まともにこうした内容を教育困難校などでしゃべっても


全く伝わらないだろう。


そんなことはやる前からわかっている。


ではどうするか?




またまたヒントは現場にあった。




今回の宮崎キャラバンのきっかけを作ってくださった、


元宮崎商業高校の田代先生だ。


宮崎商業にお邪魔した時、


ベネッセさんが作ったという性格診断表のようなものを見せていただいた。


それは次のようなものだった。


鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。



我々は発展途上の「のび太」の場所にいる。


ゴールは右上の発達した「でき杉」。


そこに至るには2つの道がある。




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すなわち「ジャイアン」の自我を経て発達する①のタイプと


「しずかちゃん」の社会性を経て発達する②のタイプ。


前者が男子校的、後者は女子高的。


なるほど…




ドラえもんは国民的マンガなので


そのキャラクター像は明確だ。


ドラえもんを使えば「働く意味」が簡単に語れるではないか!




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すなわち、私たちが「のび太」から「でき杉」に上がっていくためには


ジャイアンの「自我」としずかちゃんの「社会性」が必要なのである。


しかしその2者は対立する。


ではどうするか?




ここで私はちょっと違った観点からこの問題を考えてみた。




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そもそも「公と私」というもの、その順序はどうなのか?


いったい、どちらが先なのか?


ヒントは意外な場所にあった。


飛行機の中だ。




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離陸直前にスチュワーデスさんが酸素マスクの注意などを実演する。


「あそこにヒントがある」と心理学の先生に教えてもらった。




上の写真をよくご覧いただきたい。


お母さんは坊やを差し置いてまず自分自身にマスクをつけている。


そのときの坊やの表情↓をご覧いただきたい。




鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。



坊やの目線をそんな風に感じるのは私だけだろうか?




お母さんはまず自分自身をしっかり準備してから


しかる後に、坊やにマスクを装備している。


これが国際基準である。


すなわち、




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ということになる。




「私」→「公」であって、「公」→「私」ではないのだ。


人を助けるには、まず自分自身を助けなければならないのだ。




よく自分の事を差し置いて人のために奔走する人がいる。


確かにマザー・テレサのような方はいるだろう。


「私」はもはやない。


あるのは神に仕える「公」としての自分だけ。


しかし多くの人は「発展途上ののび太」なのだ。


まずは自分の力をつけねばならない。


実力を上げねばならぬのだ。


そうでなければ社会に貢献できない。




大切なことはまず自分の器を満たすこと。


自分の中にある器を目いっぱい満たしてあげること。


そのあふれた余剰で


私たちは公のために貢献することができる。


(もっとも、その器があまりに大きすぎるのも問題だが…入れても入れても「まだまだ、もっと!」みたいに)




人間の欲望の正当性を声高らかに宣言したのが


心理学者のマズローである。


人間には欲望がある。


しかし(健康な人間であれば)ある欲望が満たされると


より高次の欲望を求めて人間は向上して行く。


それが有名なマズローの欲求5段階説だ。




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1.生理的欲求…食べ物がほしい、子孫を残したい


2.安全の欲求…明日も食べ物がほしい、身を守る場所がほしい


3.社会的欲求…仲間がほしい


4.自我の欲求…自分を認めて欲しい、尊敬して欲しい


5.自己実現の欲求…本当に自分がすべきことをしたい!




下の欲求が満たされると


人間はすぐさまそのことは忘れて次を求める。


別の言葉で言えば「不平不満」だが、その「不平不満」にも段階があるのだ。


不平不満は一般によくないことといわれるが


その内容を考えてみて、


不平不満のレベルが上がっているのであれば


それは求める欲求レベルが上がっていることにもなる。


悪くはないのだ。


(ただ、すでに満たされたものへの「感謝」の気持ちは必要だろう)




ところで「生きること事の意味」とは何か?


それは他の命を食べること。


生とは、本来罪深い。


生きる欲求とは奪う欲求でもある。


ではその罪深い「生きる」という行為を


何か意味のあるものにできないのか?




それが欲求の質的転換である。


上記のピラミッドをわかりやすく次のように書き換えてみる。







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頂上の「自己実現の欲求」を「与える欲求」。


それ以下を「奪う欲求(求める欲求)」とする。


点線から下と上では欲求の質が違ってくる。




「(自分が)~したい」     → 私


「(他人に)~してあげたい」 → 公




マズローのいう理想社会とは


個人が徹底的なエゴイストであってもいいという世界だ。


その「個人のエゴ」が「公のエゴ」に矛盾しない世界である。




※ユーサイキアのこと。実現不可能なユートピアではなく


  実現可能な社会のことをマズローは「ユーサイキア」という造語で表現した。




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はじめは自分のベクトルは周りとは全然別方向を向いているとする。


しかし個々人それぞれに与えられた能力が育まれ(自ら育み)、


その能力が社会で表現されると、次のように変わってくる。


(あるいはそうした職場を求めること)






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自分は好きでやっているのに、


なぜか公の方向と一致している。


公のエゴを満たしている。


つまり、人の役に立っているというわけだ。


マズローはこの状態を「自己実現」と呼んだ。


私はこれは起こりうることだと信じている。




人に「~してあげる」にはそれなりに与えるものを持っていなければならない。


知識や能力や技術など。


これらがないと与えられない。


だからこそまずはしっかりと勉強して


自分自身のパワーをレベルアップしておかねばならない。


すなわち、勉強とは社会へ出るための準備なのである。




こうして「働く意味」はいつしか「学ぶ意味」へと転換して行く。


私はしばしば講演のテーマを、




「働く意味をどう語るか?」




などとするのだが、実際に高校生の前で話すのは「学ぶ意味」である。


だから学校現場から声がかかるのだと思う。




働くことは高校生にとって遠すぎる。


彼らはもっと身近なことに悩んでいる。


「成績が伸びない」「友だち関係がうまくいかない」「なんとなく不安だ」…


将来のことをちらつかせながら、


問題を今に引き戻したい、と私は考えている。


そのためには「何を語るか」よりも「いかに語るか」という伝え方の工夫の方が重要になる。


だからさきほどの「ドラえもん的人生論」などが意味を持つ。




本当は子どもたちはやるべきことを知っている。


でも踏み出せない。


その背中を押す、小さな一押し。


それができるか、できないか。


わずか80分ではあるが、そんな思いで私は全国を回っている。




講演後にアンケートを書いてもらうときに




「質問があったら書いてください。お時間はかかるかもしれませんが必ずお返事します」




といって質問を受け付けています。


宮崎キャラバンではすべてやろうと思います。




さてそんな中で次の質問。




アニメーターや声優等の「憧れ系の職業」への夢をあきらめるべきか、というような質問でした。


私はつぎのように答えました。




________________________________





質問ありがとうございます。

人間は希望がないと生きていけません。


夢は持ち続けるべきです。


しかし夢には段階があって、


「憧れだけの夢」と「実現すべき夢」があります。


あなたの夢はどちらですか?




夢を描くのはイメージの力です。


ではそのイメージの力にはどのようなものがあるのか?


どんな段階があるのか?


私は次のピラミッドを考えてみました。


(↓クリックで拡大)




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もしあなたの夢が④や⑤の段階にあるならば、


おそらく声優にはなれないでしょう。


しかし夢のレベルが③に入りかけていたら…。


恐らくあなたは具体的な行動を起こすことでしょう。


それがどのような行動かは私にはわかりません。


声優養成の学校に足を運ぶことなのか、


声優のプロダクションを訪問することなのか、


オーディションを受けることなのか…。




あるいは日々、具体的にどんな努力をしているかも重要です。


ただあこがれの声優の声を聞いているだけなのか、


それともその声をまねて、実際に、同じようにテープに吹き込んでみたことがあるのか。


それを自分自身で客観的に聞いて修正する努力をしているのか。




ピラミッドにあるように、


②の創造とは「想いを形にすること」です。


憧れだけではだめなのです。


ましてや、声優の世界は非常に厳しいと聞いています。


才能や努力だけでなく運やツキも必要でしょう。


あなたににそこまでの覚悟があるのか、


まずは自分自身に問いかけてみてください。




「どんなリスクがあっても絶対にやり遂げる!」




という強い決意があるのならば、チャレンジすることをおすすめします。


しかしただ漠然とあこがれている段階(④のレベル)でしたら、


仕事にするのではなく趣味と割り切ることも考えねばなりません。




自分の可能性はどこにどう広がっていくのかわからないのです。


まずは自分の「つぶやきの習慣」を変えることから取り組んでください。


その上でもう一度、「挑戦すべきかどうか」決めてください。


ただ高校だけは中退しないようにしてください。


理由は…書くまでもありませんね。




講演後によくアンケートをいただきます。


たまに、




  質問があればアンケートに書いてください


  なんでも結構です


  必ず返事します!




ということをやります。


そんなやりとりの紹介…


_________________________________




Q:「話す力と書く力はどうすれば身につくか?」




私は結構、この2つの力へのこだわりを持っています。


きっかけは


ある新入社員研修を頼まれたときのことです。




「これからビジネス社会を生き抜いていく新人に必要なスキルは何だろう?」




と考えたことでした。


これからは転職、リストラは当たり前の時代です。


ではどうしたらいいのか?


その答えが「話す力と書く力」という2つのスキルを磨くこと。


これは携帯電話と同じように持ち運びが可能です。


身に備わっ能力、ポータブルスキルといえましょう。




仮に転職して全く違う業種に就いたとしても


「話す力と書く力」さえあれば


新しい商品知識を学び、


それを話し、書けばいいわけです。




そのうち思ったのです。




「これは学校時代から意識したほうがいいだろう」




と。


それから機会あるたびに


「話す力と書く力」の必要性を訴えてきました。


それに対する質問が冒頭の「どうすれば…?」という問いでした。


私は次のように答えました。






質問ありがとうございます。

「話す力と書く力はどうすれば身につくか?」ということですね。

お答えします。




まずは2つの力の大前提について。

これは講演でお話しました。

自分自身に対して




「どうせ…」

「そんなこといったって…」




という悲観的なつぶやきがたくさんある限り、

「話す」ことも「書く」こともなかなかうまくいかないかもしれません。


「読む」「聞く」という行為が受け身の姿勢でよいのとは反対に、

「話す」と「書く」はこちらから行動を起こさねばなりません。

自分の考えが悲観的だと




「どうせこんなこと話したって…」

「どうせうまく書けっこないんだ…」




となり、行動に移せないでしょう。


あなたはまず、




「つぶやきの習慣を変えること」

「その努力を習慣に変えること」




からスタートしてください。

「話す力」「書く力」とは究極のところ「慣れ」です。

経験を積むこと。

よく話すこと、よく書くことなのです。

だからそもそものマインドが弱いと経験を積めません。

ぜひ「つぶやきの習慣」を変えてみてください。




さてその上で、練習方法です。

まずは「話す力」ですが、私は次の2つをすすめます。




1.まずは「聞く」

2.詩の朗読




最初にすべきことは「聞く」こと。

話すことが上手な人、

「あの人みたいに話せたらなあ」という人を見つけて、

その人の話を「意識して」くり返し聞くことです。

漫然と聞かず、

「意識して」聞く。




その際、




「なぜこの人は話がうまいのか?」

「どこがいいのか?」




と自分に問いかけながらくり返し聞くことです。


それには有名人がいいです。

いわゆる噺家(はなしか)です。

私は三遊亭歌之助という落語家のCDをIpodにいれてくり返し聞きました。




くり返し聞くうちに、

話のリズム、間合い、テンポなどが知らず知らず身につきます。

「同じものをくり返す」ことがポイントです。

ぜひあなたにあったものを探してみてください。




次に詩の朗読。

必ず声を出す。

もちろん小説でも構いません。

お気に入りのフレーズをくり返し声に出してください。




私は中学生や高校生の頃、

家に帰るとまず教科書を音読しました。

眠気も覚めるし、

あまり頭を使わないのでとっかかりにいいですね。




そして「詩」。

詩にはリズムがあります。

できれば文語体の詩がいいです。

私は島崎藤村とか室生犀星の詩を暗誦しました。

今でも覚えています。

口語体より文語体の方が、

韻を踏んでいるのでリズム感がいいのです。




詩の解釈や意味は無視して構いません。

耳から入ってくる日本語の感触を楽しんでください。

好きな詩集が見つかる頃には、

きっと話し方の基本ができてきます。




さてその上で、

人前で実際に話さねばなりません。

これには勇気が必要です。

クラス全員の前で発言することは大変なことです。

だからまず、

先生に個人的に質問に行きましょう。

わからないところを聞きにいくのです。

自分の中ではどこまでがわかり、

どこからがわからないか、

明確にしてからいってください。

そうでなければ先生に失礼です。


まずは1対1のコミュニケーションからスタートします。

あなたの好きな先生ならばきっと好意的に質問に答えてくれるでしょうし、

なにより、その勉強の理解が深まります。一石二鳥です。




そうして慣れてきたら、

クラスの中で発言する機会を待ちましょう。

複数の人の前で話すことは「慣れ」です。

「場数」です。

私は全国5万人以上の人たちに講演してきましたが、

慣れるまで(特に100回やるまで!)は前日眠れない日もありました。

そんなときは自己暗示をかけます。




「お前は『それ』にふさわしい、お前は『それ』に値する」




こうした呪文を鏡を見ながらやりましたね。

フジテレビの「とくダネ!」の本番前も、控え室で一生懸命やりました。




では次の「書く力」。

これは一人で黙ってできるので「話す」ことより簡単ですね。




1.日記をつける(匿名ブログでもいい)

2.好きな小説家をみつける

3.新聞のコラム(天声人語など)をノートに毎日書き写す




まずは1から。

とにかく書きましょう。

短くてもいいから、まずは一文。

次に二文、そして三文。

だんだん増やしていきます。




さてここで質問です。

最初の一文は何のためにあると思いますか?

少し考えてみてください。

答えは…
































「次の第二文を読ませるため」




にあります!

そして第二文は第三文を読ませるため。

さらに…。

こうして文章は出来上がります。

まずはペンを持ってみましょう。




2つ目は好きな小説家を見つけること。

暇な時間を作って図書館へ行きます。

いろいろな作家の本を手にします。

その人の文体、ものの見方、人生観など、

自分と相性の合う、納得できる作家を見つけたらしめたものです。

その人の作品だけを読みます。

他の作家は放っておきましょう。

その作家が書いたものの中でも、

特に気に入った小説はさらにくり返し読みます。

気に入ったところだけをくり返し読みます。

さらにさらに、

気に入った部分をノートに書き写します。




  ところで話はややそれますが、

  もし可能ならば、

  小説以外に発表された随筆なども読みます。

  手紙文も読みます。

  さらにその人に関する評論も…。

  そうすると、

  一人の作家の目を通して人生というものを垣間見ることができます。

  1つの座標軸があなたの中にできあがるのです。

  もちろん、その座標軸は借り物です。

  あなた自身のオリジナルの座標軸を作らなければなりませんが、

  まずは、先達の軸を参考にする。

  究極のメンターですね。




実は多くの文筆家は人の文章を書き写すということをしています。

自分の尊敬する作家の文章を、実際に手で書き写すのです。

頭ではなく、手に記憶させます。

宮城谷昌光という歴史小説家は、

古代中国を舞台にした小説を書くにあたり、

あの、膨大な歴史書司馬遷の「史記」をすべて書き写したといいます。

行間から歴史が浮き上がってきた、といいます。




そうした意味で、3番目の新聞のコラムは、

好きな作家が見つからない場合やってほしいことです。

まず、A4の大学ノートを1冊用意します。

それを横にします。

ページの上に新聞の切り抜きをのりで貼り付け、

その下に文章を書き写します。

一字一句違わず、厳密に写します。

これを毎日100日くり返します。

やっているうちにきっと何かが変わってきます。

漢字も覚えるし、

何よりも書いてある内容について書きながら考えるようになるでしょう。

思考が深まりまるのです。


100日くり返したら、

その新聞コラムにタイトルをつけましょう。

新聞コラムにはタイトルがありません。

あなたが好きにつけていいのです。

ただし、14文字以内で。

これは考える訓練としては最適です。

書き写すことが気持ちよかったら、

100日を超えてやってみてください。




(以上)




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