私はキャリア教育の講師として全国で講演しているが
実は「働く意味」に関してはほとんど語っていない。
もちろん、かつては語っていた。
語ろうとしていた。
しかしその試みはことごとく失敗した。
それほど、高校生に「働く意味」を語ることは難しい。
これは現場の先生方はよくわかっていただけると思う。
試行錯誤の末、私は次の方法をとった。
「A」というテーマを語るに際し、
あえて直接「A」に触れる事を避け、逆に「A」でないことを話題にする。
その中で、逆説的に「A」について考えてもらう、といったやり方だ。
「非A」の輪郭が明確になれば、おのずと「A」が浮き上がってくる。
そうして「フリーター」「ニート」「ワーキングプア」という内容が入ってきたに過ぎない。
「働くこととは○○だ!」
「人間観、人生論を説くべきだ!」
「キミの人生観を述べたまえ!」。
かつてある会合で同席した某出版社の社長から説教された事がある。
(今度選挙に出るらしい…)
キミのような語りではだめだ、と。
「成功した社長」のような講演ができたらそれにこしたことはない。
私もやってみたい。
しかし少なくとも、高校生はそれを求めていない。
一部の進学校なら受け入れられるかもしれかないが…
ただ先生向けやPTA向けの講演で
「働く意味」について語ることがある。
ヒントは高校生がくれた。
福岡県の高校で講演した際、
その感想文に次のような事が書いてあった。
私は働くことの意味を辞書で調べてみました。
そこには2つの意味がありました。
1つは、お金を稼ぐこと。
もう1つは、人のために~をすること。…
細部を忘れてしまったが、要するに2つの意味があるということ。
そうだ、確かに。
これは「公と私」の問題なのだ。
私たちはいろいろな仮面を被って社会生活を送っている。
会社では課長の仮面。
家では夫の仮面、父親の仮面。
地域に出たら○○役員の仮面。
しかしその実態は…
そう、仮面の下に自分の素顔がある。
それが「私」。
「本当は今日は○○したくないんだが、でも課長としての俺は○○しなければならない」
子どもはこの切り替えが下手だ。
だからこそ子どもなのだ。
大人はしばしば、仮面の下で泣いていたりする。
公(思いやり)と私(意欲)という矛盾する2者をいかに育むか?
まさにこれこそが幼児教育、いや教育の永遠のテーマである。
そしてそれを自ら切り替えて行くことを「自律性」という。
人に言われたからやるのではない。
自らの判断でやる。
「あの上司のもとならば働く。
でもお前の下では働くものか!」
本当はこれではいけない。
自分の人生を人に預けてはならないのである。
(まあ、現実はなかなか…)
さて、「働く」とは?
それは「公と私」のバランスの上にある。
自分のためにお金を稼がないといけない。
生活できない。
しかし働くという事の意味はそれだけではない。
人の役にたたなければならない。
「公と私の対立」。
これは人生の永遠のテーマでもあるのだ。
いきなり話は飛ぶが「24」というドラマがある。
あれなどもまさにテーマは「公と私」。
テロリストが人質を盾に交渉してきた。
応じるわけには行かない。
アメリカ合衆国のメンツにかけて。
しかしなんと、その人質は自分の娘だった。
どうする、ジャック・バウアー! といったノリだ。
「公と私」の葛藤に苦しむ主人公の姿に
我々はいとも簡単に感情移入してしまう。
ヒーローとは、何らかの形で「自己犠牲」を払う存在である。
逆に言えば、自己犠牲を行った途端、
その人はヒーローになる資格を得る。
程度の差こそあれ、
「公と私」の間で苦しむのは誰もが一緒なのである。
(健康な人間であれば、とマズローは付け加えるだろう)
この根源的なテーマをいかに授業化するか、できるのか?
まともにこうした内容を教育困難校などでしゃべっても
全く伝わらないだろう。
そんなことはやる前からわかっている。
ではどうするか?
またまたヒントは現場にあった。
今回の宮崎キャラバンのきっかけを作ってくださった、
元宮崎商業高校の田代先生だ。
宮崎商業にお邪魔した時、
ベネッセさんが作ったという性格診断表のようなものを見せていただいた。
それは次のようなものだった。
我々は発展途上の「のび太」の場所にいる。
ゴールは右上の発達した「でき杉」。
そこに至るには2つの道がある。
すなわち「ジャイアン」の自我を経て発達する①のタイプと
「しずかちゃん」の社会性を経て発達する②のタイプ。
前者が男子校的、後者は女子高的。
なるほど…
ドラえもんは国民的マンガなので
そのキャラクター像は明確だ。
ドラえもんを使えば「働く意味」が簡単に語れるではないか!
すなわち、私たちが「のび太」から「でき杉」に上がっていくためには
ジャイアンの「自我」としずかちゃんの「社会性」が必要なのである。
しかしその2者は対立する。
ではどうするか?
ここで私はちょっと違った観点からこの問題を考えてみた。
いったい、どちらが先なのか?
ヒントは意外な場所にあった。
飛行機の中だ。
離陸直前にスチュワーデスさんが酸素マスクの注意などを実演する。
「あそこにヒントがある」と心理学の先生に教えてもらった。
上の写真をよくご覧いただきたい。
お母さんは坊やを差し置いてまず自分自身にマスクをつけている。
そのときの坊やの表情↓をご覧いただきたい。
坊やの目線をそんな風に感じるのは私だけだろうか?
お母さんはまず自分自身をしっかり準備してから
しかる後に、坊やにマスクを装備している。
これが国際基準である。
すなわち、
ということになる。
「私」→「公」であって、「公」→「私」ではないのだ。
人を助けるには、まず自分自身を助けなければならないのだ。
よく自分の事を差し置いて人のために奔走する人がいる。
確かにマザー・テレサのような方はいるだろう。
「私」はもはやない。
あるのは神に仕える「公」としての自分だけ。
しかし多くの人は「発展途上ののび太」なのだ。
まずは自分の力をつけねばならない。
実力を上げねばならぬのだ。
そうでなければ社会に貢献できない。
大切なことはまず自分の器を満たすこと。
自分の中にある器を目いっぱい満たしてあげること。
そのあふれた余剰で
私たちは公のために貢献することができる。
(もっとも、その器があまりに大きすぎるのも問題だが…入れても入れても「まだまだ、もっと!」みたいに)
人間の欲望の正当性を声高らかに宣言したのが
心理学者のマズローである。
人間には欲望がある。
しかし(健康な人間であれば)ある欲望が満たされると
より高次の欲望を求めて人間は向上して行く。
それが有名なマズローの欲求5段階説だ。
1.生理的欲求…食べ物がほしい、子孫を残したい
2.安全の欲求…明日も食べ物がほしい、身を守る場所がほしい
3.社会的欲求…仲間がほしい
4.自我の欲求…自分を認めて欲しい、尊敬して欲しい
5.自己実現の欲求…本当に自分がすべきことをしたい!
下の欲求が満たされると
人間はすぐさまそのことは忘れて次を求める。
別の言葉で言えば「不平不満」だが、その「不平不満」にも段階があるのだ。
不平不満は一般によくないことといわれるが
その内容を考えてみて、
不平不満のレベルが上がっているのであれば
それは求める欲求レベルが上がっていることにもなる。
悪くはないのだ。
(ただ、すでに満たされたものへの「感謝」の気持ちは必要だろう)
ところで「生きること事の意味」とは何か?
それは他の命を食べること。
生とは、本来罪深い。
生きる欲求とは奪う欲求でもある。
ではその罪深い「生きる」という行為を
何か意味のあるものにできないのか?
それが欲求の質的転換である。
上記のピラミッドをわかりやすく次のように書き換えてみる。
頂上の「自己実現の欲求」を「与える欲求」。
それ以下を「奪う欲求(求める欲求)」とする。
点線から下と上では欲求の質が違ってくる。
「(自分が)~したい」 → 私
「(他人に)~してあげたい」 → 公
マズローのいう理想社会とは
個人が徹底的なエゴイストであってもいいという世界だ。
その「個人のエゴ」が「公のエゴ」に矛盾しない世界である。
※ユーサイキアのこと。実現不可能なユートピアではなく
実現可能な社会のことをマズローは「ユーサイキア」という造語で表現した。
はじめは自分のベクトルは周りとは全然別方向を向いているとする。
しかし個々人それぞれに与えられた能力が育まれ(自ら育み)、
その能力が社会で表現されると、次のように変わってくる。
(あるいはそうした職場を求めること)
自分は好きでやっているのに、
なぜか公の方向と一致している。
公のエゴを満たしている。
つまり、人の役に立っているというわけだ。
マズローはこの状態を「自己実現」と呼んだ。
私はこれは起こりうることだと信じている。
人に「~してあげる」にはそれなりに与えるものを持っていなければならない。
知識や能力や技術など。
これらがないと与えられない。
だからこそまずはしっかりと勉強して
自分自身のパワーをレベルアップしておかねばならない。
すなわち、勉強とは社会へ出るための準備なのである。
こうして「働く意味」はいつしか「学ぶ意味」へと転換して行く。
私はしばしば講演のテーマを、
「働く意味をどう語るか?」
などとするのだが、実際に高校生の前で話すのは「学ぶ意味」である。
だから学校現場から声がかかるのだと思う。
働くことは高校生にとって遠すぎる。
彼らはもっと身近なことに悩んでいる。
「成績が伸びない」「友だち関係がうまくいかない」「なんとなく不安だ」…
将来のことをちらつかせながら、
問題を今に引き戻したい、と私は考えている。
そのためには「何を語るか」よりも「いかに語るか」という伝え方の工夫の方が重要になる。
だからさきほどの「ドラえもん的人生論」などが意味を持つ。
本当は子どもたちはやるべきことを知っている。
でも踏み出せない。
その背中を押す、小さな一押し。
それができるか、できないか。
わずか80分ではあるが、そんな思いで私は全国を回っている。