鳥居徹也ブログ (講演記録)

全国講演をビデオで報告します!

2010年07月

(画像なし)



昨日は習志野市の教育委員会主催の研修会でしゃべりました。

今年の3月に習志野市の中学校で講演したのですが

そのときのご担当の天田先生が教育委員会へ異動となり

すぐに招聘いただきました。

ありがとうございます。



会場の習志野市総合教育センターはかなり年季のはいった建物でした。

先生方はちょうど研修期間のようで

連日勉強ということでした。

習志野市の小学校と中学校の生徒指導ご担当の先生などお集まりいただき

私が90分講演させていただきました。

またご縁がありましたら

習志野市の学校も回らせていただきたいと思います。





鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。
鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。




釣り以外の目的で河口湖に行ったのは初めてです。


都立竹台高校の1年生が、ここで研修合宿を行っており


その初日のオープニングで「働く意味は学ぶ意味」をテーマに80分やりました。

鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。




私の講演の代名詞にもなっている「フリーター・ニート」ですが


実は私の講演内容を反映したキーワードではありません。


私は高校生に対して




「学ぶ意味」




を伝えたいのです。




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「将来に備えて今、できることをしておこう!」




講演後に、そんな気持ちになってくれたら成功です。


その際、ボトルネックとなっているのが、




「自己肯定感の低下」




になります。




先生たちは一生懸命、目の前の生徒のいいところ、優れた点をみつけてほめようとします。




先生「キミ、やればできるじゃないか!」


生徒「はい、ありがとうございます」





と、先生と面と向かっては笑顔で答えていたのに


その生徒は家に帰ると次のようにつぶやきます。




(うそだ、うそだ。そんなことない。だめに決まってる…)




これですべてが「無」になります。




鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。





「コミュニケーション」は誤解されており、


AではなくBなのです。


相手のことや世間のこと(A)ばかり気にしており


肝心の自分自身(B)との対話がないがしろにされています。




自分で自分のことを傷つけないこと。


自分の能力を自ら否定しないこと。


そんな「心の働かせ方」を今日も話してきました。




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ちなみに、本当の意味で「学ぶ意味」を図解すると


以下のようになります。


(私が好きな氷山であらわします)




鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。





水面上にわずかに見えている「知識」の部分。


いわば大学入試のための勉強です。


「学校で学ぶ」といえばだいたいここになります。


私自身も高校生だった頃、


大学入試以外の勉強は無に等しい、とまで考えていました。




しかし、水面下に隠れた「本当の学ぶ意味」とは


そうした大学入試のための勉強をする過程で身につくものです。




「勉強法」…自分に合った学び方、ノートのとり方、参考書の探し方などを自覚できていること


「論理性」…難しい科目に頭をひねりながら取り組むことで、「わかることとわからないこと」を


       分けていく。


「表現力」…論理性をベースとして、アウトプットすること。「話す力と書く力」さえあれば、


       転職もリストラも怖くない。




以上の3つを自覚しつつ勉強すれば


これは社会で使えるスキルとなります。


自覚できるかどうか、がポイントになります。




まずは「勉強法」。


学校の勉強では教科書が指定されています。


しかも教科書とは、基礎から応用へとステップ・バイ・ステップで道筋が引かれています。


会社に入って新しい勉強をしなければいけないとき、


まずは教科書探しです。


自分に合った基本書を見つける。


それをどのように学ぶのか。


見て学ぶのか、聞いて学ぶのか、体(手)を使って学ぶのか。


学校時代にいろいろな科目に取り組む中で


将来、社会でサバイバルするための「学習法」を身に着けておく必要があります。


しかもそれが自覚できていることが大切です。


自覚できていなければ、また一からやり直しですから。




「論理性」とは、自分が理解していることを、


相手にもわかるように「順序と配列」に工夫を凝らすこと。




「表現力」は、その論理性がベースになります。


不幸にして自分の会社がつぶれても、


「話す力と書く力」はあなたの携帯電話のように


いつでもどこでも持ち運び可能です。


その上に、新しく扱う商品知識を乗せればいいだけです。




逆にいえば、


大学入試を無事クリアしても


上記3つが身についていなければ


社会に出て苦労します。




キャリア教育には大きな誤解があると思います。






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だから「働く意味は学ぶ意味」というタイトルを考えました。


これからはこれで全国を回っていきます。






追伸:


明日は茨城県の潮来ホテルにて


千葉県立匝瑳高校の1年生に講演です。




先月からはじまった「宮崎県キャリアアップ・キャラバン」。

その2日目のようすがテレビ宮崎で流されました。

現在、番組ホームページ内で動画を見ることができます。

トップページの「動画配信メニュー」にある、

「のびよ!みやざきっ子」をクリックしてください。

「7/3放送分」になります。



 → こちらから




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撮影は高千穂高校にて行いました。

ディレクターの方が楽しい人で

高校生も喜んでいました。







本日は朝から夜まで東京家政大学にいました。

家政大の尾崎先生からお声をかけていただきました。

ありがとうございます。




尾崎先生が編集責任で作られた本に

私も共同執筆の形で論文を書かせていただきました。

萌文書林から9月頃出版されます。

その経験から、「保育者へのキャリア教育」というテーマに目覚めたところです。

そうした意味でもありがとうございます。




さて1限が大学3年生への講義。

5限が短大2年生への講義。

テーマは「働くことを考える」でした。

私の講演テーマ(キャリア教育)と自分の本業(幼稚園・保育園経営)をミックスした内容です。

ある意味で今の私が最も得意とする分野ではないかと思います。

それで意気込んで出かけました。




朝一番の講義は9時スタート。

内容的には私がいつも高校生向けに話しているものに

「自己肯定感を育むためのしつけ」というテクニック的なものを加えました。

でも朝一番の彼女たちはちょっと眠かったみたい。

最後の部分は「うつらうつら…」という人も。




その後私はお部屋を借りて

ただひたすら、質問への答えを書いていました。

これは宮崎キャラバンで講演するすべての高校で行うと決めたことです。

講演後のアンケート用紙に「質問があれば書いてください。必ずお返事します」と書きました。

先日、高鍋農業高校さんから全校生徒分のアンケートが届きました。

38名の生徒さんが質問を書いていたので

せっせと答えを書きました。

明日送ります。


この作業はかなり時間を使いました。

あっという間に、5限が来ました。


講義する教室は9段階教室といって、見晴らしのよい講義室です。

東京家政大学は私たちの園と関係が深く

学生さんの見学や実習受け入れ、そして採用も。

ウチの園とスクールカラーも合うみたいです。


5限は東京家政短期大学の2年生さん。

据付のプロジェクターの輝度が弱かったため

部屋の明かりをすべて消して、暗幕を開ける形でスタート。

ちょっと闇の中の講演でした。




それがお祭りのように盛り上がるので

これは講師冥利に尽きる、といったところでしょうか。

あそこまでリアクションしていただけると

ギャグを仕込んだ甲斐があるというところです。

みなさん、ありがとうございます。




またこの5限の講義には

萌文書林の編集の方やこどものともの方々をお招きしていました。

わざわざありがとうございます。

写真はありませんが、報告まで。




私はキャリア教育の講師として全国で講演しているが


実は「働く意味」に関してはほとんど語っていない。


もちろん、かつては語っていた。


語ろうとしていた。


しかしその試みはことごとく失敗した。


それほど、高校生に「働く意味」を語ることは難しい。


これは現場の先生方はよくわかっていただけると思う。


試行錯誤の末、私は次の方法をとった。




鳥居徹也ブログ 2009年度からの近況です。





「A」というテーマを語るに際し、


あえて直接「A」に触れる事を避け、逆に「A」でないことを話題にする。


その中で、逆説的に「A」について考えてもらう、といったやり方だ。


「非A」の輪郭が明確になれば、おのずと「A」が浮き上がってくる。


そうして「フリーター」「ニート」「ワーキングプア」という内容が入ってきたに過ぎない。




 「働くこととは○○だ!」


 「人間観、人生論を説くべきだ!」




「キミの人生観を述べたまえ!」。


かつてある会合で同席した某出版社の社長から説教された事がある。


(今度選挙に出るらしい…)


キミのような語りではだめだ、と。




「成功した社長」のような講演ができたらそれにこしたことはない。


私もやってみたい。


しかし少なくとも、高校生はそれを求めていない。


一部の進学校なら受け入れられるかもしれかないが…




ただ先生向けやPTA向けの講演で


「働く意味」について語ることがある。


ヒントは高校生がくれた。




福岡県の高校で講演した際、


その感想文に次のような事が書いてあった。




 私は働くことの意味を辞書で調べてみました。


 そこには2つの意味がありました。


 1つは、お金を稼ぐこと。


 もう1つは、人のために~をすること。…





細部を忘れてしまったが、要するに2つの意味があるということ。


そうだ、確かに。


これは「公と私」の問題なのだ。




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私たちはいろいろな仮面を被って社会生活を送っている。


会社では課長の仮面。


家では夫の仮面、父親の仮面。


地域に出たら○○役員の仮面。


しかしその実態は…




そう、仮面の下に自分の素顔がある。


それが「私」。




 「本当は今日は○○したくないんだが、でも課長としての俺は○○しなければならない」




子どもはこの切り替えが下手だ。


だからこそ子どもなのだ。


大人はしばしば、仮面の下で泣いていたりする。




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公(思いやり)と私(意欲)という矛盾する2者をいかに育むか?


まさにこれこそが幼児教育、いや教育の永遠のテーマである。


そしてそれを自ら切り替えて行くことを「自律性」という。


人に言われたからやるのではない。


自らの判断でやる。




「あの上司のもとならば働く。


でもお前の下では働くものか!」




本当はこれではいけない。


自分の人生を人に預けてはならないのである。


(まあ、現実はなかなか…)




さて、「働く」とは?




それは「公と私」のバランスの上にある。


自分のためにお金を稼がないといけない。


生活できない。


しかし働くという事の意味はそれだけではない。


人の役にたたなければならない。


「公と私の対立」。


これは人生の永遠のテーマでもあるのだ。




いきなり話は飛ぶが「24」というドラマがある。


あれなどもまさにテーマは「公と私」。


テロリストが人質を盾に交渉してきた。


応じるわけには行かない。


アメリカ合衆国のメンツにかけて。


しかしなんと、その人質は自分の娘だった。


どうする、ジャック・バウアー! といったノリだ。




「公と私」の葛藤に苦しむ主人公の姿に


我々はいとも簡単に感情移入してしまう。


ヒーローとは、何らかの形で「自己犠牲」を払う存在である。


逆に言えば、自己犠牲を行った途端、


その人はヒーローになる資格を得る。


程度の差こそあれ、


「公と私」の間で苦しむのは誰もが一緒なのである。


(健康な人間であれば、とマズローは付け加えるだろう)




この根源的なテーマをいかに授業化するか、できるのか?


まともにこうした内容を教育困難校などでしゃべっても


全く伝わらないだろう。


そんなことはやる前からわかっている。


ではどうするか?




またまたヒントは現場にあった。




今回の宮崎キャラバンのきっかけを作ってくださった、


元宮崎商業高校の田代先生だ。


宮崎商業にお邪魔した時、


ベネッセさんが作ったという性格診断表のようなものを見せていただいた。


それは次のようなものだった。


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我々は発展途上の「のび太」の場所にいる。


ゴールは右上の発達した「でき杉」。


そこに至るには2つの道がある。




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すなわち「ジャイアン」の自我を経て発達する①のタイプと


「しずかちゃん」の社会性を経て発達する②のタイプ。


前者が男子校的、後者は女子高的。


なるほど…




ドラえもんは国民的マンガなので


そのキャラクター像は明確だ。


ドラえもんを使えば「働く意味」が簡単に語れるではないか!




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すなわち、私たちが「のび太」から「でき杉」に上がっていくためには


ジャイアンの「自我」としずかちゃんの「社会性」が必要なのである。


しかしその2者は対立する。


ではどうするか?




ここで私はちょっと違った観点からこの問題を考えてみた。




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そもそも「公と私」というもの、その順序はどうなのか?


いったい、どちらが先なのか?


ヒントは意外な場所にあった。


飛行機の中だ。




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離陸直前にスチュワーデスさんが酸素マスクの注意などを実演する。


「あそこにヒントがある」と心理学の先生に教えてもらった。




上の写真をよくご覧いただきたい。


お母さんは坊やを差し置いてまず自分自身にマスクをつけている。


そのときの坊やの表情↓をご覧いただきたい。




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坊やの目線をそんな風に感じるのは私だけだろうか?




お母さんはまず自分自身をしっかり準備してから


しかる後に、坊やにマスクを装備している。


これが国際基準である。


すなわち、




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ということになる。




「私」→「公」であって、「公」→「私」ではないのだ。


人を助けるには、まず自分自身を助けなければならないのだ。




よく自分の事を差し置いて人のために奔走する人がいる。


確かにマザー・テレサのような方はいるだろう。


「私」はもはやない。


あるのは神に仕える「公」としての自分だけ。


しかし多くの人は「発展途上ののび太」なのだ。


まずは自分の力をつけねばならない。


実力を上げねばならぬのだ。


そうでなければ社会に貢献できない。




大切なことはまず自分の器を満たすこと。


自分の中にある器を目いっぱい満たしてあげること。


そのあふれた余剰で


私たちは公のために貢献することができる。


(もっとも、その器があまりに大きすぎるのも問題だが…入れても入れても「まだまだ、もっと!」みたいに)




人間の欲望の正当性を声高らかに宣言したのが


心理学者のマズローである。


人間には欲望がある。


しかし(健康な人間であれば)ある欲望が満たされると


より高次の欲望を求めて人間は向上して行く。


それが有名なマズローの欲求5段階説だ。




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1.生理的欲求…食べ物がほしい、子孫を残したい


2.安全の欲求…明日も食べ物がほしい、身を守る場所がほしい


3.社会的欲求…仲間がほしい


4.自我の欲求…自分を認めて欲しい、尊敬して欲しい


5.自己実現の欲求…本当に自分がすべきことをしたい!




下の欲求が満たされると


人間はすぐさまそのことは忘れて次を求める。


別の言葉で言えば「不平不満」だが、その「不平不満」にも段階があるのだ。


不平不満は一般によくないことといわれるが


その内容を考えてみて、


不平不満のレベルが上がっているのであれば


それは求める欲求レベルが上がっていることにもなる。


悪くはないのだ。


(ただ、すでに満たされたものへの「感謝」の気持ちは必要だろう)




ところで「生きること事の意味」とは何か?


それは他の命を食べること。


生とは、本来罪深い。


生きる欲求とは奪う欲求でもある。


ではその罪深い「生きる」という行為を


何か意味のあるものにできないのか?




それが欲求の質的転換である。


上記のピラミッドをわかりやすく次のように書き換えてみる。







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頂上の「自己実現の欲求」を「与える欲求」。


それ以下を「奪う欲求(求める欲求)」とする。


点線から下と上では欲求の質が違ってくる。




「(自分が)~したい」     → 私


「(他人に)~してあげたい」 → 公




マズローのいう理想社会とは


個人が徹底的なエゴイストであってもいいという世界だ。


その「個人のエゴ」が「公のエゴ」に矛盾しない世界である。




※ユーサイキアのこと。実現不可能なユートピアではなく


  実現可能な社会のことをマズローは「ユーサイキア」という造語で表現した。




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はじめは自分のベクトルは周りとは全然別方向を向いているとする。


しかし個々人それぞれに与えられた能力が育まれ(自ら育み)、


その能力が社会で表現されると、次のように変わってくる。


(あるいはそうした職場を求めること)






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自分は好きでやっているのに、


なぜか公の方向と一致している。


公のエゴを満たしている。


つまり、人の役に立っているというわけだ。


マズローはこの状態を「自己実現」と呼んだ。


私はこれは起こりうることだと信じている。




人に「~してあげる」にはそれなりに与えるものを持っていなければならない。


知識や能力や技術など。


これらがないと与えられない。


だからこそまずはしっかりと勉強して


自分自身のパワーをレベルアップしておかねばならない。


すなわち、勉強とは社会へ出るための準備なのである。




こうして「働く意味」はいつしか「学ぶ意味」へと転換して行く。


私はしばしば講演のテーマを、




「働く意味をどう語るか?」




などとするのだが、実際に高校生の前で話すのは「学ぶ意味」である。


だから学校現場から声がかかるのだと思う。




働くことは高校生にとって遠すぎる。


彼らはもっと身近なことに悩んでいる。


「成績が伸びない」「友だち関係がうまくいかない」「なんとなく不安だ」…


将来のことをちらつかせながら、


問題を今に引き戻したい、と私は考えている。


そのためには「何を語るか」よりも「いかに語るか」という伝え方の工夫の方が重要になる。


だからさきほどの「ドラえもん的人生論」などが意味を持つ。




本当は子どもたちはやるべきことを知っている。


でも踏み出せない。


その背中を押す、小さな一押し。


それができるか、できないか。


わずか80分ではあるが、そんな思いで私は全国を回っている。




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