鳥居徹也ブログ (講演記録)

全国講演をビデオで報告します!

2009年05月

昨年、島根県教委の招聘にて行った講演がきっかけで


隠岐の島にあるすべての高校(隠岐高校、隠岐水産高校、隠岐島前高校の3つ)を回ってきました。


すばらしい自然と人情。


大変感じることの多かったキャラバンでした。


関係者のみなさま、ありがとうございます。




月曜日は東京家政大学にて講演。


火曜日は福岡県の博多青松高校へ。


木曜日は埼玉の菖蒲中学校にて講演。


6月も頭から千葉県の高校で2件。


翌週は北海道、そして岐阜へ。


そのまた翌週はやはり東京家政大学と千葉の高校。


そして最後は埼玉県の朝霞高校定時制です。


これで前半戦が終了します。








ときどきふと思い出す人がいる。




私の家はJRの最寄り駅から1.5キロほどあるので


よくバスを使う。


終点まで使う。


バスは途中で


大通りから左折して細い通りに入る。




3d85da73.jpg




図のように


バスは左折してから約600mの距離を走る。


しかし左折地点は視界が悪いため


バス会社はそこに交通整理の担当者を置いている。






21ef8d6e.jpg




その交通整理担当者は


警備会社からの派遣ではないかと思う。


彼らの仕事とは


その視界の悪い交差点に常駐し


バスが着たら誘導した後、


その600mの距離だけバスに乗る。


そして終点からふたたび600mだけバスに乗り


例の交差点で降りる。


交差点には雨宿りの場所がない。


雨の日はびしょぬれだ。




しかしこの仕事の大変さはそういうことではないだろう。


単調なくり返し。


1日に30、40回ほど


この600mだけバスに乗り続けるのだ。




私はバスに乗ると


見るともなく観察してしまう。


バスを誘導したら


特にすべきことはない。


あとは


600m揺られるだけだ。




今まで実に多くの人がこの仕事をしてきた。


数名を除いて


人はどんどん変わった。


そういう類の仕事だった。




そんな中で一人


私には忘れえぬ人がいる。


私はその人に


仕事をするとはどういうことか教わった気がする。




東京の朝は不機嫌だ。


みなむっつりしている。


私もその一人だ。


ある朝バスに乗り込むといきなり、




 おはよう!





と目と目を合わせて声をかけられた。


私は一瞬怯んだ。


そして目を逸らしてしまった。


もちろん、


あいさつを返すことはしなかった。




朝からご機嫌な警備員さんははじめてだった。


バスが出発するまで10分くらい時間があった。


その間、


私はその人から目が離せなかった。




たいていの警備員さんは


何もせずじっとしている。


携帯を見ている人もいる。


別に構わない。


彼らの仕事は


600mの距離を移動し、交差点で降り


大通りへとバスを誘導することだ。


まったく問題ない。


しかしその人は違ったのだ。




とにかく首がよく動く。


全盛期の中田英寿のようだ。


クルクル、クルクル


まわりの状況を確認しているかのようだ。




と、


いきなり後部座席の方に身を隠した。


私はびっくりした。


いきなりこの人は何をするのだろう?




すると程なく


小さな子連れのお母さんがやってきた。


坊やは3歳くらいか。


坊やが後部座席の方へ進んでくるといきなり


その人はどこに隠し持っていたのか


道端に咲いている花を




 バァ~





と坊やに差し出した。


バス内が一瞬で明るくなった。


坊やの笑い声に満たされた。


お母さんもうれしそうに


「いつもどうも…」と会釈している。


私は愕然とした。




そのままバスが出発した。


バスが走り出してもその人は


やはり首をキョロキョロさせていた。


対向車のこと。


道行く人の安全。


目に入るあらゆる情報を見逃さないようにしていた。


先ほど坊やに花を渡したときの顔とは一変して


大変厳しい顔をしていた。


しかしその顔が瞬時に緩む。


そして沿道の人に手を振る。


視線の先にはお年寄りだった。




その人の600mは一時が万事そのようだった。




またあるとき。


出発までまだ数分ある。


手持ちの花がなかったのだろう、


例の坊やとは別の子どもを見つけると


あわてて下車し花を摘みに走った。


その行動の俊敏さに胸を打たれた。




あるときは


出発を待つバス内で


キョロキョロ周りを見回しても誰も乗り込んでこないことを確認すると


今度は窓から上を見上げた。


そしていきなり手を振る。


その停留所からは団地が近い。


目線の先にはやはりまた、


別の子どもがいた。


うれしそうに手を振っていた。




たった600m。


その人がバスにいるだけで


私は大変豊かな気持ちになった。


他の警備の人は


バス内でずっと首を垂れている人もいる。


私と目が合うと


双方、バツが悪くなり互いの目が泳ぐ。


そんな中、


その人だけは違った。


交差点で勇躍、バスに乗り込むと




 「さあ、ここからは俺の仕事場だ!」





とその背中が語りかけてきたものだ。




しかしあるときから


その人の姿が見えなくなった。


かつてもあった。


1ヶ月くらい姿を見せなくなり




 「もうやめたのかな、結構お年のようだったから…」




などと考えていると


また勇ましくバスに現れる。


だから今回も私は


あまり深刻には考えていなかったのだ。




しかし何ヶ月たっても


何年たっても


その人は二度と姿を見せなかった。


もう二度と会えない気がする。




私の後悔は


なぜあのとき、




 「おはよう!」





の一言が返せなかったのかということだ。


あの瞬間は二度と戻らない。


最初の出会いから何度も顔を合わせたのだが


私とは一瞬目を合わせて軽く会釈する。


そして私も軽く会釈する、という間柄になった。


心の中ではあふれんばかりの親しみを感じながら


私にはその距離感を縮めることはできなかった。


今こうしてその人のことを思い出すや


その距離感は完全になくなるというのに。




仕事とは何か?


あの単調な600mがこうも色彩鮮やかに変わってしまう。


その人を失った今、


いつもと同じ単調なバス内にて


私は何か大切なものを教えてもらった気がしてならない。


もし町でその人を見かけたら


今度は声をかけられるだろうか?


「お元気ですか」と話しかけられるだろうか?


私はふと、


そんなことを考えてる。




サンクチュアリ出版の『最後のパレード』が


大変な騒動になっている。


有名なのでここであえて詳細には触れない。




サンクチュアリは営業のうまい出版社である。


1年に出版する本は確か、10以内だと聞いた。


1日に約300点もの本が新発売される業界において異色な存在だ。




今回の『最後の…』は私は読んでいない。


またディズニー関係も私はあまり詳しくないので


盗作騒動にもコメントしない。


ただいけないことをしてしまったのだから謝ればいいものを、とは思う。




私がなによりもびっくりしたのは


サンクチュアリが作成したプロモーション・ビデオである。


すばらしい完成度だ。


こんな記事を見つけた。




 「感動ものの本というのは、ポップやポスターではその良さが伝えにくい。


 その点、PVは映像や音を使うことで、本の感動的な雰囲気を効果的に伝えられます」


 (ORICON BiZ4月20日号より。サンク営業の話)





ビデオ編集を日常的に行っている私にすれば


本を読まなくても、もう、このPVだけで




 参りました!




という感じだ。


BGMが絶妙だし、イラストも美しい。


そこに気の利いたテキストが入れば


あのような調和が生み出される。


大いに参考になった。


繰り返し見て、細部を脳に焼き付けている。




これからの時代、


ホームページはすべて映像になる、という話も聞く。


映像は新しい言語になる。


編集ソフトももっと簡単になるだろう。


すると今度は発想が勝負になる。


映像という言語は、ロジックは


文字とは違う。


使う頭も違う。




ところでなぜブログをいきなり書き始めたのかというと


最近、ビデオばかりやっていて


文章を書くことが億劫になってきたからなのだ。


文章を書く作業は


筋肉トレーニングと一緒で


やっていないとできなくなる。


いわばリハビリである。


ぼちぼち、新しい本も書かなければならないので


少しずつトレーニングを再開した、ということです。




このブログは結構、ひっそり開設したので


あまり読んでいる人はいないとは思うのですが


そんな私の個人的トレーニングにつき合わさせてしまっているということで


ここで一言お詫び申し上げます。










高度情報化社会に不安はつきもの。


情報が多すぎる。


思うに


人が生まれ、生活し、死ぬというサイクルにおいて


必要な情報は案外少なくて構わないのかもしれない。


我々は必要以上の情報に振り回されている気がする。


意志の力とは


何かをする、獲得するというよりも


何かをしない、選択しないという面において重要な意味を持つ。


それくらい


高度情報化社会には無駄が多い。




「最初の仕事はくじ引きだ」とドラッカーはいった。


やってみなはれ、ということか。


確かにそうだ。


最初から向いた仕事は何かわからないものだ。


やりながら学ぶことがある。


知りすぎることが直接体験の機会を奪う。


インターネットの恐ろしさである。




マーティン・セリグマンは


アメリカ心理学協会元会長。


「フロイト以来の心理学の革命児」といわれているとか。


一言で言えば


ポジティブ・シンキングの元祖というべきか。




こう書くとなにやら安っぽく感じる。


それくらい、


この「ポジティブ・シンキング」は世に溢れている。


しかし『オプティミストはなぜ成功するのか』(講談社文庫)を読んでみよう。


セリグマン自身が大変なペシミストであることがわかる。


つまり、


セリグマンの主張、研究は


自分自身の境遇から生まれたものであることがわかるのだ。




13歳のとき


父親の身体に異変が起こる。


無力状態となり悲嘆のうちに生涯を閉じる。


幼きセリグマンの将来の研究テーマが決まった瞬間だった。




医学か心理学かで迷ったが心理学を選ぶ。


そして研究室を尋ねたその日、


偶然の出会いがある。




ちょうど「パブロフの犬」の研究をしていた。


しかし実験が頓挫していた。


ブザーとともに軽い電気ショックを与える条件付けの実験。


ブザーがなれば当然、


犬は逃げるはずだった。


しかし犬は逃げない。


電気ショックを受けるがままになっていた。


いわゆる「無力状態」だ。


頭を抱える研究員。


しかしセリグマンの目は輝く。




 「無力な状態は学習される!」




有名な「学習性無力感」である。


実験の詳細は書かないが


動物もヒトも


自らの働きかけで環境に変化を与えることができないとなると


何もしなくなってしまう。


一種の「うつ状態」になるというわけだ。


セリグマンは「うつモデル」を手に入れた。


そして次々と新しい見解を発表していく。




これは当時の心理学会への挑戦だった。


その頃、心理学のメインストリームは2つ。


1つはフロイトに始まる精神分析。


もう1つはスキナーに代表される行動心理学。


前者の主張は、人間の幼児期の性格(特に性的なもの)がすべてを支配する。


後者は、行動さえ見ていれば人間は理解できる。


つまりともに


人間の自由意志はさほど考慮にいれていないわけだ。


マズローもそうだと思うが


ここに「人間的な心理学」の生まれる土壌があったのだと思う。


必然でしょう。




セリグマンの行った有名な実験は


犬に電気ショックを与えて無力にするというもの。


普通に考えてこれはひどいと思う。


実はセリグマンは相当悩んだ。


(犬好きだったのだ)


恩師の哲学部の教授に相談している。


そして次の2点を確認する。




1.その実験により多くの人が救われるか?


2.裏付けが取れ次第、その実験を即刻中止し二度と行わない




かくして「学習性無力感」は世間に広まった。


そしてセリグマンはさらに進めて


無力感の反対の「効力感」も学習できるとした。


まさにここに、


セリグマンの愛がある!


(ちょっとおおげさか)




本を読んでいてわかるのだが


セリグマン、結構な悲観主義者である。


境遇を考えればやむを得まい。


だからこそだろう、


無力感(うつ状態)にある人へ


「こうしたらどうか」という熱い気持ちを感じるのだ。




セリグマンは


人間の「説明スタイル」に注目した。


何だろう、説明スタイルって?




もしあなたの前に憎っくきライバルが現れて


面と向かってあなたの欠点をあげつらわれたとしよう。


即時に反論するだろう。


しかしこれが自分自身だとどうか。


自分が自分に語りかける言葉には抵抗できない。


それは長い期間をかけて習得したものだから。


親の教育、先生の教育、社会慣習、くせ…


それがポジティブな、よい「説明スタイル」ならいいだろう。


しかしそれが悲観的なものだとしたら…


その人はつねに


自分自身の尊厳を失うような思考回路で日常を過ごすことになる。


これは大変な損失だ。




もっとわかりやすい例を出そう。


プロスポーツの世界で活躍するアスリート。


その試合後のコメント。


勝負の世界に生きる人間は


今日の結果を明日に引きずるわけにはいかない。


つねに切り替えが求められる。


逆に言えば


楽観的な思考回路がなければプロの世界ではやっていけない、というわけだ。


(実際にはその前提の上に能力による競争があるのだが)




ニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、


デレク・ジータの敗戦後のコメント。




 「こんな日もあるね。彼らのための試合だったね」





今日は運が悪かった。


明日は違うだろうという切り替え。


あるいは、


我々はアンラッキーだった。


彼らが良すぎただけだ、といった感じか。




同じくヤンキースの我らが松井秀喜。


ちょっと膝の具合が心配だが、


松井選手のコメントを見ていると


決して現状を悲観しない、


タフなマインドを読み取ることができる。




 4/12:10打席ノーヒット


 「一言で言えば投球に対してうまく対応できていない。まだ、かみ合ってない感じです」

 「練習では悪くないが、試合になると投手に対応できていない」




結果が出ないことを自分の




 「能力不足」のせいにしていない。


 「努力不足」に、むしろその原因を求めている。




これはきわめて重要なのである。


能力とはそう簡単に変化しない。


しかし努力ならなんとかなる。


少なくともそう考えれば、


次の行動に移れる。


無力感を持った犬ではないが


行動しない限り、現状は変えられない。




 4/15:4番から降格


 「(打順は)任されたところでやるだけ。結果を出さないといけないのは何番でも一緒ですから」




 3日後の4/18:スタメン落ち


 「仕方ない。打てない時期なんかいっぱいあるわけですから。


 たまたまそれがスタートにきているだけ





 10日後の4/28:打ち始めて


 「心境は変わらない。いつも『よし、やってやろう』の気持ち」




決して悲観的にならないようなコメントをしている。


これが松井秀喜の「説明スタイル」である。




壁にぶち当たったとき、


悲観的な人は物事を「広げて」考える。


楽観的な人は「広げない」。


時間は一時的だし、


空間は限定的だ。




彼女にフラれた。




 悲観的説明スタイル → 永続的思考 「俺はもうだめだ。もう誰にも愛されない」


 楽観的説明スタイル → 限定的思考 「こんなこともある。性格が合わなかっただけだ」





詳しいことはセリグマン博士の本を読んでもらうこととして


そろそろ書くことをやめようと思う。




自分の思考形態に気づかねばならない。


口は2つあるのだ。


みなさんの鼻の下にある2つの唇を持った口と


心の中の口と。


この、




 心の中の口




が厄介なのだ。


コイツは一向にそのおしゃべりをやめない。


音がしないだけにベラベラしゃべっていることがわからない。


しかし気づかねばならない。




心の口があなた自身に何を語りかけているか。


それが悲観的説明スタイルであるのか。


そうならば、強い意志を持って




 自分自身に反論しなければならない




悲観的な意見に対して、


物事を「限定的」「一時的」に言い返さねばならない。


これは習慣なのである。


恐らくは、母親の。


そう、セリグマンは書いている。


ごく小さなとき、母親がどんな説明スタイルをしていたか。


これが子どもの説明スタイルに大きな影響を与えることをセリグマンは発表している。


(父親はあまり関係ないそうだ。身近にいないからか)




しかし過ぎたことは仕方がない。


もし自分の悲観的説明スタイルに気づいたら


ただちに反論を開始しよう。










全国を講演しているが


実は関西は苦手である。


これでも大阪には4年住んでいた。


関西にはシンパシーを感じている、つもりだ。


ただふりかえると苦い思いは関西が多い。


奈良然り。


京都然り。


大阪然り(もちろんすばらしい思い出も数多いが)。




私の早口関東弁がいけないようだ。


以前、枚方の中学校で講演したとき


その学校の校長先生がおっしゃった。


 

 「トリイさん、この辺ははんなりですわ…」




(はんなり、か…)


私の講演はスライド枚数が多いので


どうしても速射砲のようになる。


特に全国キャラバンスタート当時の2005年はひどかった。


しばしば過去を消したいと思うわけだが


随分恥ずかしい講演もしたと思う。


(当時は必死だったが)




1、2年目は世間(メディア)に向けてしゃべっていた。


3年目は目の前の聞いてくれるみなさんに向けてしゃべっていた。


今は自分自身に向けてしゃべっている。




講演は難しいものだと思う。


実際私も、1年先までスケジュールがぎっしり埋まった4年前の5月、


不安になりいろいろな人に講演する際の心構えを聞いて回った。


(さまざまなアドバイスをいただいたみなさま、かなり時間がたちましたがその節はありがとうございました)




実に多種多様なご意見をいただいたが


1つだけ共通点があった。


しかもたいていそれは


話の最後に軽く付け加えられたのだった。




 「最後は場数だよ…」




バカズ。


確かにそうだ。


バカズに勝るものはない。




全国キャラバンスタート当初はちょうど、フリーター急増が社会問題になっていた。


ニートという言葉もイギリスからやってきた。


そこにそれまで千葉県の高校にてコツコツ「働く意味」をしゃべっていた私が時流に乗った。


それだけだ。




ただ人間は勘違いをする。


毎日のように取材を受けていると、当初とは違う感覚が芽生える。


いわゆる自己拡大だ。




 「このように話せば高校生に『働く意味』が伝わりますよ」




という意図で書いた小冊子が出発点だったが


なんだか変な使命感がくっついてきた。


でなければあんなに講演を受けられなかっただろうとは思う。




ちょっと弱みを明かすと私はやや喉が弱い。


これは講師としては致命傷だ。


ひとたびカゼを引けば地獄になる。


それでも講演は続く。


実は全国を回り続けていた頃、


年間の半分くらいは体調が悪かった。


咳がずいぶん続いた。


心配で肺のCTをとったりした。


しかし原因はわからなかった。


結局、無理をしていたのだと思う。




しかし一度も講演には穴を開けなかった。


危ないときもあった。


あれもまた関西。


神戸。


前泊したホテル。


私はほとんど外出はしない。


温泉にも入らない。


気を緩めるとろくなことがない。


かつて沖縄で講演をし、


すぐその後に


長野県を縦断するキャラバンをした際カゼを引いた。


温度差に対応できない身体にとって


湯冷めした状態は危険だった。


あれ以来、決して温泉には入らないようにしている。


ところでその神戸。




ルームサービスでカレーを頼んだ。


12時前に就寝。


しかし突然夜中の2時に目覚めた。


みぞおちが痛い。


体中に悪寒が走る。


下痢と吐き気。


食中毒か?


しかし食べたのはカレー。


しかもホテルのカレー。




結局朝まで一睡もできず。


また水も口にできない。


出たら困る。


そのまま昼の講演会場へ。


神戸市民のみなさん対象の90分の講演だった。


あとで熱を測ったら38.5度だった。


フラフラになりながら声をしぼった。


肛門もしぼった(失礼!)。


講演終了後、かなり長い質疑応答も行った。


そしてそのままバタン・キュー。




しかしこうした




 「バカズ」




が今の私の支えとなっている。


どんなときでもしゃべる。


どんな状態でもしゃべる。




私の仕事場はたいてい学校の体育館になる。


一般に、


体育館の音響はよくない。


音がこもることが多い。


当初は音質ばかり気になった。


しかし今は気にならない。


音声がこもる環境での講演はそれなりのコツがある。


腹筋を強く使って


言葉(音声)を切るように吐き出すのだ。


マイクに声をぶつける、とでもいおうか。




 「パッ、パッ」




というイメージだ。




それから…今でも立派な会場などで


講演前の講師紹介プロフィールが読みあげられるとき


(しかもそれはかなり立派な枕詞がついていたりする)




 「これはいったい、誰のことだろう??…オレか?」




と認識した途端、ちょっとゾッとすることがある。


会場にいるみなさんの顔がはっきりと視界に入ってくる。


よく見ると、なにやら私に敵意を感じているようだ。


(そんな風にも見えてしまう)




そこまできたらあとは自分自身に話しかけるだけだ。


(大丈夫、今までバカズを踏んできたのだから…)


そうして今も全国を回っています。




先日の四條畷北高校さんでも


ちょっと覚悟して臨みました。


大人と違って、高校生はその場にならないとリアクションがわからない。


評判がいい高校でも対面すると実際は…ということはたくさんあった。




が…いやはや、すばらしい生徒さんたちでした。


「覚悟して」というのは彼らが最後の3年生で


来年の3月に廃校になるということだったので。


廃校になるということは


地元の評判も悪くなり、中学生が集まらなくなり…という悪循環があったはず。


千葉県でもそうした例をたくさん見てきた。




私の講演はテーマがテーマなので


依頼先は教育困難校が多い。


だから時にあぶなっかしい場面も多々あった。


私は柔道場での講演はお断りしている。


かつてプロレス会場のようになった経験があるからだ。




大都市の高校と地方の高校は随分違う。


東京や神奈川の学校はかなり大変なところがあると思う。


えらそうに書いてしまったが


同じテーマで数百回もしゃべっていると


いい加減、私の技術も安定する。


もちろん、当初は違った。


講演がうまくいかないと




 「オレが悪いのかな…」




と帰りの電車の中で自分を責めていた。


反省は大事だが、


現状認識はもっと大事だ。


「バカズ」を踏むうちに学校の姿がよく見えてきた。


私の中のデーターベースが一杯になってきたわけだ。




結論として思うのは


生徒さんの講演を聞く態度は偏差値とは関係ない。


先生たちがいかに生徒に関心を向けているか次第だろう。


かわいがられている生徒は大人に心を開く。


四條畷北高校然りだ。


確かに個々の顔をよく見ると


若干、恐い顔がいた(失礼!)。


でも目は生きている。


私の方を真剣に見つめている。


(ゴールデン・ウィーク明けの、午後開始の薄暗い体育館の中にあっても!)




私の講演内容には批判も多い。


特にサヨク系の人には嫌われている。


しかたがない。


私は教育現場で予防を説く立場だ。


将来のことを話しながら


今何をすべきか、


今何に備えるべきか話している。




 もっと悲惨な現実を話すべきだ。


 社会が悪い、経営者が悪い、政治が悪い、結局今の世の中が悪い。




そうした流れで行くとつまるところ、




 「生まれた時代が悪かった」




ということになる。


しかし高校生はこれから生きていかねばならない。


何か希望がなければ前へ進めない。


そんな高校生に少しでも何か参考になればという思いが私にはある。


現場の先生方の中には困っている人もいる。


こうしてまたキャラバンは続く。


このブログはそんな記録を綴ったものである。


更新は不定期になるでしょうが、


どうぞよろしくお願いします。








4月の東京は暑かったので


沖縄は寒く感じた。


前泊したホテルにて、布団を被っていた。


鼻かぜをひいてしまった。




翌日読谷(よみたん)高校。


全体で1,000名ほど。


現地エージェントのみなさんと行動した。


ありがとうございます。




生徒への講演終了後、


PTAのみなさんと有志の先生方への講演。


その後、


校長先生、PTA会長はじめ先生方と懇親の場。


私は2年前にお酒をやめたため、ウーロン茶にて失礼した。


お酒をやめると


人生の半分くらいの何かを失う。


私はそれを良しとしたが。




翌日は糸満高校のPTAのみなさんへの講演。


この日も気温はやはり低めだったが


日差しは完璧だった。


光と影のコントラスト。


目に強く印象付けられた。




ちょっとした光景が残るのだ。


薄暗い店内から眺めた通りの喧騒、街並み。


例えばすばらしい風景を記録に残そうとしてもそれは難しい。


あんな狭いファインダーでは捉えきれない。


むしろカメラは切り取ることで


些細なパーツをパノラマに拡張できる。


だから旅の記録は瞬時に感じた切片を頭に残すのみ。


それでいい。


それがいい。














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